生きる時間が数ヶ月伸びて、その間に歌ができればいい
基本データ
歌人、永田和宏と河野裕子。
生と死を見つめ、深い絆で結ばれた夫婦の愛と苦悩の物語。その時、夫は妻を抱きしめるしかなかった――歌人永田和宏の妻であり、戦後を代表する女流歌人・河野裕子が、突然、乳がんの宣告を受けた。闘病生活を家族で支え合い、恢復に向いつつも、妻は過剰な服薬のため精神的に不安定になってゆく。
凄絶な日々に懊悩し葛藤する夫。そして、がんの再発……。発病から最期の日まで、限りある命と向き合いながら歌を詠み続けた夫婦の愛の物語。
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書名 | 歌に私は泣くだらう: 妻・河野裕子 闘病の十年 |
著者 | 永田和宏(患者の夫) |
出版社 | 新潮社 |
発売日 | 2012年7月20日 |
- 患者氏名:河野裕子(1946年生まれ)
- 種類:乳がん
- 発症年齢:54歳頃
- 病歴概要:2000年9月20日の夜に左わきの大きなしこりに気付く。9月22日に乳がんと診断。10月11日に手術 2008年7月16日に転移・再発の診断。9月頃に抗がん剤開始したが、2010年8月12日に64歳で逝去
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おススメ書籍の使い方 | がんケアネット以下の文章には、「末期」・「死」などが含まれている場合があります。
おススメポイント
もう一度じっくりと考える。「夫婦の絆」「家族の絆」
歌人永田和弘の妻であり、戦後を代表する女流歌人である河野裕子が乳がんと診断された。
診断から死去までの10年間、夫婦で歌を詠み続けた。夫婦それぞれの感情の記録。晩年、妻の精神が不安定になりがちで、その頃の様子・苦悩が読まれた歌と共に細かに描かれている。
歌で詠まれた記録は、人によっては大きなものを感じさせられると思う。また、命のある限り歌を残すと共に、苦痛があっても、少しでも命が伸びれば、その間に歌を詠むことができると考えた点には脱帽する。
がん患者としても一人に人間の記録としても、一読いただきたい。
このような方、このような時に
- 夫婦や家族のきずなをもう一度考えたい
- 夫婦それぞれの感情の記録を読みたい
一部抜粋
以下、下線は私自身によるものです。
この気持ちはよくわかる
なぜ私だけが、こんな目に合わねばならないのか。私はひょっとしたら再発で死ぬかもしれない。なのに、家族のみんなは、それまでと何一つ変わらない生活をしている。彼女の不満はそこにあった。不遇感である。自分一人が取り残されていくという不安でもそれはあっただろう。
「誰も私のしんどさを分かってくれない」「思いやりがない」。そんな言葉が、日常的に彼女の口から出てくるようになった。怒りが爆発すると、「あんたら、寄ってたかって私を殺そうとする」とまで言うようになっていった。
彼女にがんが見つかったとき、「あなたががんになったのは、俺にも半分責任がある」と彼女に伝えた。夫として、気付くべきことであったのに、という意味である。
引用:p78
愛しすぎていることが憎しみの原点
河野はその頃、心底私を憎んでいた。しかし、彼女が誰よりも愛していたのも、またまぎれもなく私なのであった。
河野裕子という歌人には、ほどほどという概念はあり得なかった。憎んで憎んで、最も憎みながら、その憎しみの中で、私を誰よりも愛し、私以外の男の存在はつゆほどにも彼女の視野のなかに入ることはなかった。
愛しすぎていることが憎しみの原点にあった。
引用:p92
あの時の壊れた私を抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて
あの時の壊れた私を抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて
後年、この一首を見た時、私は、それまでの彼女の錯乱にも似た発作と激情の嵐、私への罵言のすべてを許せると思った。
まったく何も覚えていないのだろうと、そのことだけが私には悔しかったが、彼女は全てではないかもしれないが、少なくとも自分の挙動を覚えてくれていた。そして、その挙動に、なすすべもなく、途方に暮れていた私を正確に見ていた。
どういってもわかってくれない。どう接しても、心がつながらない。途方に暮れて、ある時、彼女を抱きしめたまま、泣いたことがあった。確かに私も悔しい思いで、そのことを覚えている。彼女のこの一首を見た瞬間、あの忌まわしいと思っていた夜のことが、とても懐かしく、甘美なにおいに包まれてしまったような気がしたのは、われながら不思議であった。
引用:p92
生きる時間が数ヶ月伸びて、その間に歌ができればいい
抗がん剤の苦痛、副作用として食欲がなくなること、それはわかってはいるが、河野はそれを引き受けようとしていた。
治るとは、もう二人とも思ってはいなかった。苦痛に耐えても伸びる時間はせいぜい数ヶ月だということも、少なくとも私は承知していた。しかしその数ヶ月に、何十首かの歌が生まれれば、その時間は意味を持つ。
河野の歌は河野にしか作れない。残されたわずかな時間の中で、作れるだけの歌を書き残すこと、それは短歌史においても大切なことなのだと私は思った。もう治療はやめて楽にしようとは言えなかった。
引用:p166
わたししかあなたを包めぬかなしさがわたしを守りてくれぬ四十年かけて
自分だけが、永田を包み、生かすことができる。それは河野の心底からの自信であった。初めて出会った時以来、変わらず持ち続けてきた河野の自恃であった。
この人を包んでいてやらなければと思い続けてきたことが、逆に自分を守ってくれたのだという。四十年という歳月は、彼女にとってそういう歳月だった。ここに詠われる「かなしさ」は「愛しさ」でもあろう。いま自分を投げだして、死なないでと訴えかけている夫を悲しみつつ、これらの歌には、どこかにようやく得られた平安とある種の安堵感がにじんでいる。
引用:p178
泣いてゐるひまはあらずも一首でも書き得るかぎりは書き写しゆく
これが彼女を突き動かした原動力であったことは間違いない。
泣いている暇があったら、一首でも多く自分の歌を残したい、これは、ある意味では、がんが見つかって以来の十年という時間の中で、彼女が苦しみ、もがき、呻き、そして恨み、その果てにようやく見出した生き方の結論なのでもあった。
引用:p190
わが知らぬさびしさの日々を生きゆかむ君を思へどなぐさめがたし
「わが知らぬ」が何としても悲しい。その後のあなたの寂しさには、もう私は関わることができない。どんなに一人残される寂しさを訴え、悲しみを嘆いても、どうする術もない。
彼女は自分の死ぬということ以上に、これからは、これまでのように私を包んでやることのできないことを悲しみ、私を残してゆかなければならない、それが唯一の心残りであることを詠っていた。
引用:p192
手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 河野裕子の最後の一種
死の前日に作られた。近代以降、これほどの歌を最後の一首として残した家人はいないのではないかと私は思う。私が自分の手で、この一首を口述筆記で書き残せたことを、涙ぐましくも誇りに思う。
引用:p199
この書籍の目次
私はここよ吊り橋ぢやない
ああ寒いわたしの左側に居てほしい
茶を飲ませ別れ来しことわれを救える
助手席にいるのはいつも君だった
夫ならば庇つて欲しかつた医学書閉ぢて
私は妻だつたのよ触れられもせず
あの時の壊れたわたしを抱きしめて
東京に娘が生きてゐることの
いよいよ来ましたかと
一日が過ぎれば一日減ってゆく
歌は遺り歌に私は泣くだろう
つひにはあなたひとりを数ふ
あとがき